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3者対談

3.8(3月8日に書かれた日記ですが、掲載が一月遅れになりました。あしからず)

 昨晩、「安心引きこもりライフ」の勝山実、「ニートの歩き方」のPHA、「ナリワイをつくる」の伊藤洋志の3氏による対談が実現した。面白かった。参加した約20名の若者同士の新たな出会いがあったと思う。人と人が、ネットを通しての繋がりでなく、実際の出会いで繋がりが出来る。
 人が集まる空間さえ提供できれば、人は集まってくる。田舎と言われる地域には、都会に住む人たちが魅力を感じる場所が一杯ある。過疎化の問題を解決するのには、地域に住む人の意識が変われば、それで問題解決に大きく前進できる。と思うがそれが簡単にはいかない。田舎の人の意識はともかくとして、都会に住む若者の意識は変化している。そこにこれからの田舎と言われる地域の可能性があると思っている。
 若者が地域をいい方向に変えていくサポートをしたいものである。田舎の60過ぎたおっさんのところに、今の時代の旬の若者が集まるのも可笑しな話である。
 花を咲かせる一粒の土として、生きるか。

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遊ぶ

2.28
 先日、3歳の息子との会話。「お父さん、地球上がプラレールで一杯になったらどうする?」
「そうだなぁ、高速道路を作ろうかな。玄ちゃんならどうする」間髪を入れず「遊ぶ」
その時以来、何回となくこの会話を頭の中で繰り返している。

1年半前の大水害で一夜にして全てを失ってしまった、と思った時から、自分の考えが微妙に狂っていることが気になっている。何か自分の考え方が違っている。「遊ぶ」という息子の言葉で自分の中での微調整が始まっている。水害で実は何も失ってはいないのに、失くしたと思い込んでいるところがある。現状などないのに現状を回復しようと考えている自分の思いがある。被災しても何の問題がないと思いながら、問題があると口実にしている自分の心がある。自分の思いと行動の歯車が微妙に狂っている。自分の思いの中に矛盾が生じている。柄にもなく自分を受身にしている。   
「心こそ心迷わす心なり、、、、、、、」時間をかけて調整していこう。

 現実に目を向ければ共育学舎では、若者の巣立ちのときを迎えている。3月末で一区切り。自分なりにやってきた事の区切りである。出来ることならば一度空にして再出発したい。新たな種を蒔く為の準備は、それなりにしてきてある。自分の人生で最後の種まきになるだろう。願わくば、自分の心の一番底にある種を蒔きたいと思っている。そのためにも息子から教えられた「遊ぶ」で心を洗い続けることになるだろう。洗い続けた時それなりの芽が出るだろう。これからは息子との二人三脚の始まりである。ありがとう。

3.3
 何歳になっても迷いながら生きている。迷いから抜け出すことはないだろう。一つの問題が解決されれば次の問題が見えてくる。人間として人間社会の中で生きている以上、避けては通ることは出来ない。迷い悩むからこそ得られる事もある。失うこともある。失うことを恐れては、生きる気力を削がれてしまう。この世での始まりは素っ裸から、終わりは煙と消える。失うものなど何もないのに、つい勘違いをしてしまう。愚かでもあり悲しくもある。そこに「遊ぶ」気持ちが少しでもあれば心が和む。これでいいのかな。


1.26 

1.26
  親父が数え99歳で旅立った。これで両親がこの世からいなくなってしまった。自分にとっての一つの時代が終わった。覚悟はしていたものの、別れは悲しいものである。
親父は何時も冷静な静かな人だった。お袋は感情的で激しい人だった。水と火の組み合わせであった。これで夫婦揃って仏になった。

  子供の頃、母方の祖父が亡くなったときには土葬であった。葬儀も自宅で行われた。
今は火葬であり、葬儀も自宅でもお寺でもなく斎場で行われた。時代の流れと言ってしまえばそれまでである。一昔前までは冠婚葬祭を含め生活には地域の文化があり風俗習慣が伝わっていた。
 今は葬儀も葬儀屋が仕切り、何とか会館でする場合には、地方色はないに等しい。結婚式にも同じことが言える。
 冠婚葬祭という、人生の大事な節目の出来事もお金で済ませてしまう。人生そのものをお金で、誰かに売り渡してしまう。
 出産も医者の都合に合わせる事を強いられている。育児も教育も誰かの都合に合わせることを当然の如くしている。社会人という身分になれば、社会の常識にこれまた縛られることになる。年をとれば介護福祉に合わせる事になる。一体何時自分の都合を取り戻すことが出来るのか?

 親父は、国家の都合で、家族を置いて戦場に赴いた。どんな気持ちだったのだろうか。
どんな気持ちで子供を育てたのだろうか。

 自分は社会の常識という都合に少し疑問を感じ、ささやかな抵抗しながら生きている。自分の中にある疑問を大事にしていると結果的にそうなってしまう。自分の周りの多くの人たちは社会常識を是として生活をしている。一寸した考えの違いが生じてしまう。赤の他人ならば関係が薄いから、衝突も少なくて済むことがある。身内になると関係が深い分だけ一度衝突が生じてしまうと深く長くなってしまう。単に少しだけ考え方が違うだけの問題が、それだけの問題では済まされなくなってしまう。人格を否定され存在そのものを否定される。否定するほうには悪意がない。善意が心に刺さる。善意が人を傷つけてしまう。世間ではよく身内同士のトラブルがニュースになる。所謂骨肉の争いである。自分の考えに執着するのはお互い様だから、仕方がないことである。親父が誰かと感情的になっている姿は見たことがなかった。

 不肖の息子であり親不孝者である。両親はこの世からいなくなったが、血は受け継いでいる。自分は自分らしく生きていく。命の有る限り。  合唱

おかしなこと

1.14 おかしなこと。
  この世に生を受けて65年。自我が目覚めて約50年。
自我が目覚めてからは、自分は何の為に生きるのか?生きればいいのかを考え続けてきた。
この世に生きている間は考え続けるだろう。自分の癖である。業ともいえる。
考えても何もならないことを、考え、思い、悩んでいる。バカな人生である。

  今自分の住んでいる地域は33世帯、50人。内未成年は中学1年生の男の子と、3歳の我が子の2人だけ。2家族ともよそ者である。所謂地元の人で60歳以下は一人もいない。殆どが75歳以上である。子や孫はいるが地域外に住んでいる。世間で言うところの限界集落であり、消滅寸前の集落である。

  共育学舎を縁として新宮市に移住した若者は10人を超した。ささやかな個人的な活動ではあるが、新しい風が吹き始めている。仕事がないから若者が住めない。世間の常識である。企業を誘致し雇用を確保する。政治や行政の常套文句である。
  おかしな話であり、おかしな常識である。生きることを、雇用を前提として考えている。
雇用とは主従関係であり、お金を媒体とした人間関係である。
  共育学舎では雇用関係は成立していない。お金を媒体とした人間関係も成立していない。主従でもなく、師弟でもなく、家族でもなく、友人でもない。ただ同じ屋根の下で同じ釜の飯を食う関係でしかない。自分が生きている周りに人がいるだけである。
  他人の生き方には殆ど口出しをしない。自分が自分の好きなように生きたいから、他人にも好きなように生きたらいいと思っている。

  共育学舎には色々な人が出入りする。例えば、「ナリワイ」の著者の伊藤洋志。「ニートの歩き方」の著者のPha。「安心引きこもりライフ」の著者の勝山実。一度この3人の対談を企画したいと考えている。どんな反応になるだろうか。

  今日から滞在者がいる。家族水入らずもお終い。

新年

1 13
   昨年の暮れから新年にかけて2週間は、家内と子供も滞在中の若者もそれぞれ帰省し、久しぶりの独身生活だった。独身もこれまた楽しいものである。

   新年はどんな年になるだろうか。自分のキーワードは『貧』。新政権は景気対策を最優先するようだが、景気を良くする為に借金をするというのは、どこかおかしい。世界情勢をみれば、どんなに考えても日本経済が浮上することはないだろう。例えあったとしても所詮一時的なものである。今必要なのは勇気ある撤退である。経済戦争には白旗を掲げ、潔く撤退することである。何時までも借金を重ねていては日本人の心は傷つき、国土は荒れ果てるだろう。外国に侵略され多くの辛酸を舐めなければならないことになるだろう。

   自分の住む地域に目を向ければ、農地は耕作放棄され山は荒れている。川は汚れ涸れ果てている。人間の生命を支える土台が怪しくなっている。次代を背負う若者の姿は希である。熊野川町に住み始めて10数年。今までは畑を耕し種を蒔いてきた。少しは芽も出てきたので、これからは更に種を蒔き移植をしていく時期が来たと思っている。もうそろそろ地域のことに積極的に関わってもいい時期だと思う。この時期を逃したら地域は消滅していくだろう。

   今年は地域にとって転機の年になるだろう。後から振り返った時に、この年がと言われるような年にしたいものである。先日ある人から『真の豊かさ』とはなんだろうと質問された。その人には答えなかったが、自分の中には答えはある。これから身をもって示していきたいと思っている。
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